クジラは1時間も潜れるのに、
人はなぜゆっくりしか浮上できないの?
深く潜ること自体は、実は難しくありません。難しいのは、上がってくるほうです。体の中にとけこんだ空気が、圧力が下がった瞬間に泡へ変わるからです。クジラはその泡を作らないやり方で潜っています。
冷えた炭酸飲料のペットボトルが、目の前にあります。ふたを閉めたままだと、中の液体は静かで、泡はほとんど見えません。
ところが、ふたをひねった瞬間、液体の中から泡がいっせいに立ちのぼります。中身は何も足していないのに、です。
この「ふたを開けた瞬間」と同じことが体の中で起きるのが、潜水のこわさです。クジラは、これを起こさない方法で1時間も潜っています。
理由は、大きく2つです
水中では深さ10mごとに圧力が1つぶん増えます。強く押されると、空気は血や脂肪の中へどんどんとけこみます。圧力が下がると、とけていられなくなり、泡にもどります。
クジラは息を吸いこんでから潜るのではなく、多くを吐いてから潜るとされています。深いところでは肺がぺしゃんこにつぶれ、血にとけこむ空気が最初から少ないのです。
つまり問題は「どれだけ深く潜ったか」ではありません。「どれだけの空気を、高い圧力のもとで体にとかしこんだか」です。順番に見ていきましょう。
とけていた気体が、泡にもどる瞬間
気体が液体にとける量は、その気体が押しつけられている強さに、だいたい比例します。押す力が2倍になれば、とける量も2倍ほどになります。これをヘンリーの法則といいます。
炭酸飲料は、この法則をそのまま使った飲みものです。工場で強い圧力をかけ、二酸化炭素を液体にとかしこんで、ふたで閉じこめてあります。
ふたを開けると、押しつける力が一気に消えます。とけきれなくなった分が、行き場をなくして泡になります。図1の左と右を見くらべてください。
人が空気を吸いながら潜ると、何が起きるのか
ボンベを使った潜水では、まわりの水圧と同じ強さの空気を吸います。深いほど、こい空気を吸っていることになります。
吸った空気の約8割は窒素です。窒素は体に使われないまま、血や脂肪の中へじわじわとけこんでいきます。長くいるほど、量は増えます。
そして浮上すると、押す力が下がります。とけきれなくなった窒素が、あちこちで泡になります。これが関節の痛みやしびれを起こす減圧症です。
だから潜水では、ゆっくり浮上し、途中で止まる時間をとります。泡になる前に、肺から静かに吐き出させるためです。ふたを少しずつ開けて、炭酸をあふれさせないのと同じ考え方です。
クジラは、どうやってこれを避けているのか
マッコウクジラは水深1000mを超えて潜り、1時間以上もぐったままでいることがあるとされています。人とは、けたが違います。
ところがクジラは、空気をたくさん持って潜るわけではありません。むしろ息を吐いてから潜り、酸素は肺ではなく血液と筋肉にためて持っていくと考えられています。
深くなると、やわらかい肺はつぶれます。残った空気は、気体が血にとけこみにくい太い気道のほうへ押しやられるとされています。とかす空気がなければ、泡もできません。図2の左と右をくらべてください。
ボンベを使わず息を止めて潜る場合、持ちこむ空気は1回ぶんだけです。とけこむ窒素の量も限られます。ただし酸素が足りなくなる別の危険があるため、必ず見ていてくれる人と一緒に行います。
クジラは減圧症と無縁だと長く考えられてきました。しかし近年、骨に泡でできたとみられる小さな傷が見つかった例が報告されています。完全に無敵というわけではないようです。
まとめ
気体は、押されているあいだだけ液体にとけていられます。深く潜って空気を吸い続けると、窒素が体にとけこみます。そして浮上したときに泡へ変わろうとします。クジラは、とかす空気を持ちこまないことで、この問題をそもそも起こしていません。
深く潜るのは、難しくありません。
難しいのは、静かに上がってくることです。
水の深さと圧力そのものについては深海の生き物は、なぜあの水圧でつぶれないの?、空気の押す力が身近な道具を動かす話はなぜストローで飲み物が飲めるの?もあわせてどうぞ。
- よく冷えた炭酸飲料を用意します。ふたを閉めたまま、中に泡がほとんど無いことを確かめます。
- ふたをほんの少しだけゆるめ、音がしたらすぐ閉めます。何回かくり返し、泡が少しずつしか出ないことを見ます。
- 別の日に、今度は一気にふたを開けます。泡がいっせいに立ちのぼり、ふきこぼれそうになるのが分かります。
ゆっくり開けた2と、一気に開けた3の違いが、そのまま「ゆっくり浮上」と「急浮上」の違いです。3は流しの上で行ってください。
もっと知りたい人へ ― 用語・数式・教科書とのつながり中学理科から大学の専門科目まで、どのレベルの話かを明示しています
- 中学中学校の理科で習う範囲
- 高校高校の「化学」で習う範囲
- 高校+高校の発展、または教科書のコラム扱いの内容
- 大学高校では習わない、大学の専門科目(環境生理学・生物物理)の内容
- 研究大学でも「定説」として教わらない、いま研究者が調べている最中の話
中学用語:この現象には名前があります
- ヘンリーの法則:気体が液体にとける量が、その気体の押す強さに比例するという決まりごと。
- 減圧症:まわりの圧力が急に下がり、体にとけていた気体が泡になって起こる不調のこと。
- ミオグロビン:筋肉の中にあって、酸素をつかまえてためておくはたらきを持つ色素のこと。
中学高校式で確かめる:水深30mで、どれだけの窒素がとけるのか
深さが増すと圧力が増え、とける窒素の量もそれに比例して増えます。海面にいるときを1として、水深30mでどこまで増えるかを見てみます。
| 海面の大気の圧力 | およそ1気圧 |
| 水深10mごとに増える圧力 | およそ1気圧 |
| 海面で体にとけている窒素の量 | およそ1L とされています |
| 考える深さ | 30m |
| 水圧で増える分(気圧) | 30 ÷ 10 = 3 |
| そこでの全体の圧力(気圧) | 3 + 1 = 4 |
| とけこむ窒素の量(L) | 1 × 4 = 4 |
| 浮上したときに余る量(L) | 4 − 1 = 3 |
| 500mLのペットボトル何本分か | 3 ÷ 0.5 = 6 |
気体にもどると、ペットボトル6本ぶんにもなる量が、体の中で行き場を探すことになります。十分な時間をかけて潜った場合の目安ですが、なぜゆっくり上がるのかは、この大きさから想像がつきます。
高校高校+なぜ窒素だけが問題になるのか
高校空気のうち酸素は、体の中で使われて二酸化炭素に変わり、息として運び出されます。とけたままたまり続けることはありません。
高校+窒素は体の中でほとんど変化しません。そのため、とけた量がそのまま残ります。さらに窒素は脂肪によくとけるため、脂肪の多い組織ほど時間をかけてためこみ、時間をかけて手放します。
大学ためこみと放出の速さは、場所ごとに違う
体を「血の流れが速い組織」と「遅い組織」に分けて考えると、それぞれで窒素がたまる速さが違います。この考え方をもとに、どの深さに何分いたら、どこで何分止まって上がるかという表が作られてきました。血流や体温、運動量で速さが変わるため、同じ表でも人によって余裕の度合いは変わります。
研究まだはっきりとはわかっていないこと
- クジラはどこまで安全なのか。 骨に泡が原因とみられる傷が見つかった例があり、深く潜る種でも無条件に平気とは言い切れないと考えられています。
- 音との関係。 強い人工的な水中音のあとに深く潜る鯨類が座礁した例があり、潜り方の変化が関わる可能性が議論されています。原因と結果の関係は、まだ確定していません。
- 泡ができ始める条件。 どのくらい小さなきっかけがあれば泡が育ち始めるのかは、体の中での観察が難しく、よくわかっていません。
つまりこの記事の内容も、「いまわかっている範囲での説明」です。潜水の計画は、必ず専門の指導と最新の指針に従ってください。
教科書とのつながり(レベル別)
| レベル | 科目・単元 | この記事のどこ |
|---|---|---|
| 中学 | 理科・気体と水圧 | 深さと圧力の関係、炭酸飲料の泡 |
| 高校 | 化学・気体の溶解 | ヘンリーの法則と窒素のとけ方 |
| 高校+ | 化学・生物の発展 | 窒素が脂肪にとけやすいこと |
| 大学 | 環境生理学・生物物理 | 組織ごとのためこみの速さ |
| 研究 | 海洋生物学・潜水医学 | 鯨類の骨に残る泡の跡 |
| ― | 生活とのつながり | 炭酸飲料のふたの開け方、素潜りの注意 |
- 高気圧作業安全衛生規則および同規則の解説資料(潜水業務における浮上速度と減圧の考え方)
- 『潜水医学入門』ほか、潜水生理と減圧症に関する日本語の教科書
- Kooyman, G. L. ほか「Diving Physiology of Marine Mammals」(海生哺乳類の潜水生理に関する総説)
- Moore, M. J. & Early, G. A. 「Cumulative sperm whale bone damage and the bends」(マッコウクジラの骨に見られる損傷の報告)
※本記事は一般向けの科学解説です。掲載した数値は、しくみを理解するための目安・概算です。潜水は、必ず資格を持つ指導者のもとで、最新の指針に従って行ってください。