かぜをひくと、なぜ食べ物の味がしなくなるの?
― 味わいの大半は、舌ではなく鼻がつくっています
鼻がつまった日、いつもの料理がぼんやりして感じられます。舌が弱ったわけではありません。私たちが「味」と呼んでいるものの大部分は、口の中から鼻の奥へ抜けていく空気が運ぶ、においだったのです。
鼻がつまった朝、いつものみそ汁を飲みます。しょっぱいことは、ちゃんと分かります。それなのに、だしの香ばしさだけがどこにもありません。
イチゴのアイスも同じです。冷たいことも、甘いことも分かります。でも「イチゴらしさ」だけが、すっぽり抜け落ちています。
舌はいつもどおり働いています。消えているのは、そもそも舌が担当していなかった部分なのです。
理由は、大きく2つです
甘い・しょっぱい・酸っぱい・苦い・うま味。舌が区別できるのは、この5つの系統だけです。「イチゴの味」や「コーヒーの味」という個性は、この5つの中には入っていません。
かんだ食べ物からは、香りの成分が口の中で立ちのぼります。それがのどの奥を回りこみ、鼻の空洞へ届きます。鼻がはれると、この道がふさがります。
つまり、かぜで失われるのは「味」ではなく「香り」です。舌の担当分はそのまま残るので、しょっぱさや甘さだけが取り残されたように感じられます。順に見ていきましょう。
舌がしているのは、意外なほど大ざっぱな仕事です
舌の表面には、味蕾(みらい)という小さな受け皿がたくさん並んでいます。人ではおよそ数千個あるとされています。ここに食べ物の成分がとけこんで触れると、信号が脳へ送られます。
ところが、この受け皿が見分けられる種類はとても少ないのです。甘い・しょっぱい・酸っぱい・苦い・うま味の5系統で、ほぼ全部だと考えられています。辛さは味ではなく、痛みや熱さを感じる仕組みが反応したものです。渋さも、舌の表面のたんぱく質が縮む感触だとされています。
5つしかない、というのは思ったより不便です。ためしに、この5つだけで「メロン」と「バナナ」を言い分けられるか考えてみてください。どちらも甘い、では区別がつきません。それでも私たちが一口で当てられるのは、別の情報がいっしょに届いているからです。
香りには、二本の道があります
においを感じる細胞は、鼻の穴の奥、目と目のあいだのあたりにある天井のような場所に並んでいます。ここへ空気が届けば、においが分かります。問題は「どこから届くか」です。
道は二本あります。図1の左側の矢印が、鼻の穴から吸いこむときの道です。花や料理に鼻を近づけてかぐ、いつものかぎ方です。もう一本は図1の右側の矢印で、口の中から、のどの奥を回りこんで上がってくる道です。食べているあいだ、かんだりのみこんだりするたびに、口の中の空気が押し出されてこちらを通ります。
この二本目の道が、食事のときの主役です。かんだ瞬間に立ちのぼった香りが、舌からの5つの信号とほぼ同じタイミングで脳に届きます。すると脳は、その二つをひとまとめにして「イチゴの味」という一つの感じ方をつくります。香りなのに口の中で起きているように感じられるのは、そのためです。
かぜをひくと、鼻の奥の粘膜がはれて、この通り道が細くなります。香りの成分がセンサーまでたどり着けません。舌の5つはそのまま届くので、「甘いことは分かるのに、何の甘さか分からない」という、あの奇妙な感じになるわけです。
香りの成分は、食べ物から気体になって初めてセンサーへ届きます。温度が低いと気体になる量が減るため、香りは立ちにくくなります。アイスが少し溶けかけたほうが風味豊かに感じられるのも、口の中で温まって香りが出てくるからです。冷めたスープが物足りないのにも、同じ理由が大きく関わっていると考えられています。
舌の先が甘み、奥が苦みを担当する、という図を見たことがあるかもしれません。これは古い実験の読み違いが広まったもので、今は否定されています。5つの味は、舌のほぼ全体でどれも感じ取れることが分かっています。
まとめ
舌が担当しているのは5つの系統だけで、食べ物の個性はほとんど香りが運んでいます。しかもその香りは、鼻の穴からではなく、口の中からのどを回って届いています。かぜはこの裏側の道をふさぐので、味そのものは残ったまま、個性だけが消えるのです。
食べ物の「味」は、舌の上ではなく
口とのどと鼻をつなぐ空気の道で組み立てられています。
においが手がかりとして働く例は、ほかにもたくさんあります。焼いた食べ物の香ばしさがどこから来るのかは「焼いた食べ物は、なぜあんなにいい匂いがするの?」で、においが空気中を運ばれるしくみは「雨が降りはじめると、なぜ独特のにおいがするの?」で扱っています。
- 果汁入りのジュースか、味の違う色ちがいのグミを2種類用意します。
- 指で小鼻をしっかりつまみ、そのまま口に入れてよくかみます。甘さや酸っぱさは分かるのに、何の果物か当てにくいはずです。
- かんだまま、途中で指を離します。その瞬間に果物の個性が立ち上がってきます。これが、のどを回って上がってきた香りです。
家族で当てっこにすると差がはっきりします。うまくいかないときは、つまみ方がゆるいか、かむ回数が足りないことが多いです。
もっと知りたい人へ ― 用語・数式・教科書とのつながり中学理科から大学の専門科目まで、どのレベルの話かを明示しています
- 中学中学校の理科で習う範囲
- 高校高校の「生物基礎・生物」で習う範囲
- 高校+高校の発展、または教科書のコラム扱いの内容
- 大学高校では習わない、大学の専門科目(感覚生理学・神経科学)の内容
- 研究大学でも「定説」として教わらない、いま研究者が調べている最中の話
中学用語:この現象には名前があります
- 基本味:舌が独立して感じ分けているとされる5つの系統。甘味・塩味・酸味・苦味・うま味を指します。
- レトロネーザル嗅覚:口の中からのどを回り、鼻の奥のセンサーへ届く香りの感じ方。日本語では「口中香」「戻り香」とも呼ばれます。
- 風味:味と香りに、温度・食感・刺激などを合わせて脳がひとつにまとめた感じ方。ふだん私たちが「味」と呼んでいるのは、ほぼこちらです。
中学高校式で確かめる:見分けられる種類の差はどれくらいか
舌と鼻とで、そもそも用意されている「見分けの引き出し」がどれだけ違うのかを、けたで確かめます。以下の数はいずれも個数の見積もりで、単位はすべて「種類」です。
| 舌が感じ分ける基本味 | 5種類 |
| 人で働くにおいセンサーの型 | 約400種類とされる |
| コーヒーの香りに含まれる成分 | 800種類以上とされる |
| 引き出しの数の比 | 400 ÷ 5 = 80 |
| 2つの型を組み合わせる場合の数(順番つき) | 400 × 399 = 159600 |
| 順番の重複を外す | 159600 ÷ 2 = 79800 |
引き出しの数だけでも80倍の差があります。さらに、においは何種類ものセンサーが同時に反応する組み合わせで表されるので、2つ組を数えるだけでも約8万通りです。実際には3つ、4つと重なるため、区別できる香りの数は比べものになりません。舌の5種類がどれだけ大ざっぱかが分かります。
高校高校+受け取り方が、味と香りでは違います
高校味も香りも、細胞の膜にある受容体というたんぱく質が、特定の分子と結びつくところから始まります。結びつくと細胞の中で信号が生まれ、神経を通って脳へ伝わります。かぎと、かぎ穴の関係だと考えると分かりやすいでしょう。
高校+甘味・うま味・苦味は、こうした受容体たんぱく質が受け持ちます。一方、塩味と酸味は、イオンが細胞の中へ直接流れこむ通り道が主役だと考えられています。同じ「味」でも、しくみが二系統に分かれているわけです。においのほうは、すべてが受容体たんぱく質による受け取りです。
大学ひとつの細胞が、ひとつの型だけを使う
においを受け取る細胞は、約400ある型の中から原則としてひとつだけを選んで使うとされています。そして同じ型を使う細胞は、脳の入り口にある糸球体という構造の、決まった一点へ束ねて配線されます。結果として脳の入り口には、「どの型が、どれだけ反応したか」という地図ができます。においの正体は、この地図に浮かぶ模様として表されている、という見方です。1991年にこの受容体の遺伝子群が見つかり、その発見は2004年のノーベル生理学・医学賞につながりました。
研究まだはっきりとはわかっていないこと
- 分子の形から、においを予測できない。 光の波長から色が予想できるのとは違い、分子の構造を見ても、それがどんなにおいに感じられるかを当てることは今もできていません。よく似た形なのに、まったく違うにおいの例が知られています。
- 味と香りが「ひとつ」になる場所。 別々の神経から届いた信号が、脳のどこで、どの程度まとめられて風味という一体の感じ方になるのかは、まだ整理の途中です。
- かぜのあと、においが戻らない場合がある。 感染のあとで嗅覚が長く落ちたままになることがあり、センサー細胞そのものの問題なのか、その先の配線の問題なのかで議論が続いています。長引く場合は自己判断せず、耳鼻科の受診が勧められています。
つまりこの記事の内容も、「いまわかっている範囲での説明」です。においという身近な感覚が、五感の中でもとくに未解明の部分を残しているのは意外かもしれません。
教科書とのつながり(レベル別)
| レベル | 科目・単元 | この記事のどこ |
|---|---|---|
| 中学 | 理科・刺激と反応(感覚器官) | 舌と鼻がそれぞれ何を受け取っているか |
| 高校 | 生物基礎・生物/受容器と神経 | 受容体と信号の伝わり方 |
| 高校+ | 生物/膜たんぱく質とイオンの通り道 | 味の二系統のしくみ |
| 大学 | 感覚生理学・神経科学 | ひとつの細胞がひとつの型を使う話と、脳の入り口の地図 |
| 研究 | 嗅覚科学・化学感覚 | 分子の形とにおいの対応、風味の統合 |
| ― | 生活とのつながり | 冷めた料理が物足りない理由、鼻をつまむ実験 |
- ノーベル財団:2004年ノーベル生理学・医学賞(においの受容体と嗅覚系の組織化)
- Buck, L. and Axel, R., A novel multigene family may encode odorant receptors, Cell, 1991(においの受容体遺伝子群の発見を報告した論文)
- 日本味と匂学会 編『味と匂いの科学』(基本味と嗅覚の受容のしくみに関する解説)
- ゴードン・M・シェファード『美味しさの脳科学』(口から鼻へ抜ける香りと風味の成り立ちを扱った一般向けの書籍)
※本記事は一般向けの科学解説です。掲載した数値は、しくみを理解するための目安・概算です。においや味の感じ方には個人差があり、体調の影響も受けます。長く戻らないなど気になる症状があるときは、自己判断せず医療機関にご相談ください。