アザラシのひげは、何のためにあるの?
― 魚が30秒前に残した「水の渦」を読んでいます
アザラシは、目かくしをされても魚の通った道をたどれます。手がかりは、魚が泳いだあとに水の中へ残していく、小さな渦の列です。ひげは、その目に見えない「足あと」を読むための道具でした。
水族館のアザラシを、正面からじっくり見たことはありますか。鼻の両わきから、太くてかたそうなひげが何十本も前に向かって生えています。
アザラシが暮らす海は、いつも澄んでいるわけではありません。河口の濁った水や、光の届かない夜の海でも、彼らは魚をとって暮らしています。
目がほとんど役に立たない水の中で、どうやって獲物を見つけているのでしょうか。答えは、あのひげにありました。
ひげで魚を追える理由は、2つだけ
魚が尾びれを左右に振ると、うしろの水に小さな渦が交互にできます。この渦の列はすぐには消えず、しばらく水の中に残ります。
アザラシのひげは、表面が波打ったような形をしています。この形のおかげで、泳いでもひげ自身はあまりふるえず、かすかな水の揺れだけを感じとれます。
つまり、魚は水に「足あと」を残し、アザラシは雑音の少ないアンテナでそれを読んでいます。順に見ていきましょう。
魚の通り道には、渦の「足あと」が残る
魚は尾びれを左右に振って、水をうしろへ押しながら進みます。尾びれが右へ振れると右回りの渦、左へ振れると左回りの渦ができます。こうして、魚のうしろには回る向きが交互になった渦が、ジグザグに並びます。
図1を見てください。右を泳ぐ魚のうしろに、渦の列がのびています。左へ行くほど古い渦で、少しずつ弱まりますが、すぐには消えません。
この「足あと」をアザラシが本当に読んでいることは、実験で確かめられています。2001年、ドイツの研究チームはゼニガタアザラシに目かくしと耳当てをつけました。そのうえで、小さな潜水艇を水中で走らせ、その通り道をたどれるかを調べました。
アザラシは、潜水艇が通った道筋を正確に追いかけました。ところが、ひげを網のマスクでおおうと、追いかけられなくなりました。手がかりは目でも耳でもなく、ひげだったのです。その後の研究では、30秒以上前に残された跡からも、相手が進んだ向きを読みとれたと報告されています。
ひげが「静か」でなければ、足あとは読めない
ここで、ひとつ問題があります。水の中で棒を動かすと、棒のうしろにも渦ができます。渦が右・左と交互にはがれるたびに、棒は横へ押されてブルブルとふるえます。強い風の日に電線が「ヒューッ」と鳴るのも、同じしくみです。
ひげも水の中では細い棒です。泳ぐたびにひげ自身がふるえてしまえば、魚の残したかすかな揺れは、自分のふるえにかき消されてしまいます。耳元で太鼓を鳴らしながら、遠くのささやき声を聞こうとするようなものです。
ゼニガタアザラシのひげは、この問題を形で解いています。断面は平たいだ円で、しかも根元から先まで、太くなったり細くなったりを繰り返す波打った形をしています。この形だと、うしろにできる渦がそろわず、ひげを押す力が打ち消しあいます。実験では、丸い棒にくらべてふるえが大きく小さくなると報告されています。
図2で、ひげ自身のふるえの速さを動かしてみてください。魚の足あとの揺れは1秒に数回とゆっくりです。いっぽう、もし丸いひげなら、1秒に数百回という速さでふるえてしまいます。
速く泳ぐほど、丸いひげのふるえは激しくなります。波打ったひげは、このふるえそのものを小さく抑えることで、泳ぎながらでも魚の揺れを聞き分けられるようにしていると考えられています。
アザラシのひげ1本の根元には、1000本をこえる神経がつながっているとされます。ネズミやネコのひげとくらべても、けた違いの多さです。顔の神経の多くが、ひげのために使われているともいわれます。
同じ海の哺乳類でも、アシカのひげは表面がなめらかで、波打っていません。アシカもひげで水の揺れを感じますが、泳ぎながら長い跡をたどる力は、ゼニガタアザラシのほうが高いと報告されています。形のちがいが、使い方のちがいにつながっているのかもしれません。
まとめ
魚は泳いだあとに、渦の列という見えない足あとを残します。アザラシは、波打った形で自分のふるえを抑えたひげで、その足あとを読みとります。濁った海や夜の海でも獲物を追えるのは、このためです。
アザラシは、目で魚を探しているのではない。
ひげで、水に残った「足あと」を読んでいる。
ひげが細かな動きを感じるしくみそのものは、ネコのひげは、何を感じているの?でくわしく紹介しています。目でも鼻でもない感覚で獲物を探す生き物の話は、サメは、なぜ砂に隠れた獲物を見つけられるの?もどうぞ。
- お風呂の湯船に、手のひらを広げて静かに沈めます。しばらく動かさず、水が止まるのを待ちます。
- もう片方の手で、10センチほど離れた所をすっと横切らせます。数秒たってから、沈めた手に揺れが届くのを感じてみてください。
- 次に、割りばしを1本持って水の中ですばやく横に動かします。持つ手に、細かなブルブルが伝わるはずです。
③のブルブルが、渦がはがれるたびに棒が押される揺れです。アザラシのひげは、これを小さく抑える形をしています。
もっと知りたい人へ ― 用語・数式・教科書とのつながり中学理科から大学の専門科目まで、どのレベルの話かを明示しています
- 中学中学校の理科で習う範囲
- 高校高校の「物理」「生物」で習う範囲
- 高校+高校の発展、または教科書のコラム扱いの内容
- 大学高校では習わない、大学の専門科目(流体力学・感覚生理学)の内容
- 研究大学でも「定説」として教わらない、いま研究者が調べている最中の話
中学用語:この現象には名前があります
- 洞毛(どうもう):ひげのように、根元に多くの神経が集まった感覚用の毛。ふつうの体毛とは別物です。
- カルマン渦(うず):流れの中に置いた棒のうしろに、回る向きが交互になって並ぶ渦の列。
- 渦励振(うずれいしん):渦が交互にはがれるたびに、棒が横へ押されてふるえる現象。
中学高校式で確かめる:丸いひげは、1秒に何回ふるえるか
棒のうしろで渦がはがれる回数は、流れの速さと棒の太さで決まります。ひげが丸い棒だった場合のふるえの回数を、魚の足あとの揺れとくらべてみます。
| 記号で書くと | f = St × U ÷ d |
| 言葉で書くと | 1秒に渦がはがれる回数 = ストローハル数 × 流れの速さ ÷ 棒の太さ |
| どこから来る式か | 丸い棒のうしろでは、渦と渦の間隔が棒の太さの約5倍でほぼ一定になることが、実験で知られています。間隔が決まっていれば、流れが速いほど1秒あたりにはがれる渦は多くなります。この比例の係数がストローハル数で、丸い棒では約0.2です。 |
| f | 1秒あたりに渦がはがれる回数(棒がふるえる回数)。単位は回/秒 |
| St | ストローハル数。単位のない数。丸い棒では約0.2、泳ぐ魚の尾びれでは0.2〜0.4とされる |
| U | 流れの速さ(泳ぐ速さ)。単位はメートル毎秒 |
| d | 棒の太さ。魚の場合は尾びれが左右に振れる幅。単位はメートル |
| アザラシがゆっくり泳ぐ速さ(目安) | 秒速 1 m |
| ひげの太さ(目安) | 約1 mm = 0.001 m |
| 丸い棒のストローハル数 | 約0.2 |
| 魚の泳ぐ速さ・尾の振れ幅(小魚の目安) | 秒速 0.5 m・0.05 m |
| 魚の尾びれのストローハル数(目安) | 約0.3 |
| ひげ:ストローハル数 × 速さ | 0.2 × 1 = 0.2 |
| ひげ:太さで割る(1秒にふるえる回数) | 0.2 ÷ 0.001 = 200 |
| 魚:ストローハル数 × 速さ | 0.3 × 0.5 = 0.15 |
| 魚:振れ幅で割る(1秒の揺れの回数) | 0.15 ÷ 0.05 = 3 |
| 速さのちがい(何倍か) | 200 ÷ 3 ≒ 67 |
| 魚が30秒で残す足あとの長さ(m) | 0.5 × 30 = 15 |
丸いひげなら、1秒に約200回ふるえます。魚の足あとの揺れは1秒に約3回なので、自分のふるえのほうが70倍近く速いことになります。しかも魚の足あとは、30秒ぶんで15メートルほどの長さになります。波打ったひげは雑音を抑え、この長い足あとを追えるようにしていると考えられています。
高校高校+渦が交互にできると、なぜ棒は横にふるえるのか
高校棒の片側から渦がはがれると、そちら側の流れが変わり、棒には横向きの力がはたらきます。次は反対側から渦がはがれるので、力の向きも逆になります。これが交互に続くので、棒は左右にふるえます。作用・反作用で考えると、棒が水を横へ押し返した反動ともいえます。
高校+このふるえの回数が棒そのものの固有振動数に近づくと、共振が起きて揺れが大きくなります。橋や煙突、送電線の設計でも重要な現象です。ゼニガタアザラシのひげは、波打った形によって渦のはがれる位置を長さ方向でずらし、揺れの力がそろわないようにしていると考えられています。
大学カルマン渦列と、波打つひげの流体力学
棒のうしろの交互の渦の列は、流体力学では「カルマン渦列」と呼ばれます。渦の出る回数を表す無次元数がストローハル数で、レイノルズ数がおよそ1000から10万の範囲では約0.2でほぼ一定とされます。速さ秒速1メートル、太さ1ミリの棒では、水のレイノルズ数はおよそ1000で、この範囲の入り口にあたります。ゼニガタアザラシのひげは、断面がだ円で、長さ方向に太さが周期的に変わる「うねり形状」です。この形が渦励振を大きく弱めることが、ひげの模型を使った流れの実験と数値計算で示されています。魚の尾びれがつくる渦列は、向きが逆の「逆カルマン渦列」で、これが魚を前に進める推力になります。
📖 式の導出や、さらに先の内容:カルマン渦(ウィキペディア) / ストローハル数(ウィキペディア)
研究まだはっきりとはわかっていないこと
- 野生のアザラシは、どこまでひげに頼っているか。 実験は飼育下で行われたものが中心で、濁った海での実際の狩りでの役割の大きさは、まだ調べられている途中です。
- 足あとから、魚の大きさや種類まで分かるのか。 進む向きや形のちがいを見分けられるという報告はありますが、どこまで細かく読めるかは分かっていません。
- 波打つ形を、ものづくりに生かせるか。 水中の流れを測るセンサーや、ふるえにくい支柱への応用が研究されています。
つまりこの記事の内容も、「いまわかっている範囲での説明」です。ひげの数値や、足あとが残る時間は、研究や条件によって変わります。
教科書とのつながり(レベル別)
| レベル | 科目・単元 | この記事のどこ |
|---|---|---|
| 中学 | 理科「刺激と反応」 | ひげの根元の神経が、水の揺れを刺激として受けとる |
| 高校 | 物理「波・振動」、生物「受容器」 | 渦が交互にはがれて棒がふるえる、1秒あたりの回数 |
| 高校+ | 物理「共振」 | ふるえが棒の固有振動数に近づくと揺れが大きくなる |
| 大学 | 流体力学、感覚生理学 | カルマン渦列、ストローハル数、渦励振の抑制 |
| 研究 | 生物流体力学、生物に学ぶセンサー | 野生での役割、足あとから読める情報の細かさ |
| ― | 生活とのつながり | 風の日の電線の音、水中で棒を動かしたときのブルブル |
- Dehnhardt, G., Mauck, B., Hanke, W., Bleckmann, H. (2001) Hydrodynamic trail-following in harbor seals (Phoca vitulina). Science 293, 102–104.
- Hanke, W., Witte, M., Miersch, L. 他 (2010) Harbor seal vibrissa morphology suppresses vortex-induced vibrations. Journal of Experimental Biology 213
- Wieskotten, S., Dehnhardt, G., Mauck, B. 他 (2010) Hydrodynamic determination of the moving direction of an artificial fish in harbour seals. Journal of Experimental Biology 213.
- カルマン渦(ウィキペディア日本語版)
※本記事は一般向けの科学解説です。掲載した数値は、しくみを理解するための目安・概算です。動物の能力に関する数値は、飼育下の実験にもとづく報告で、個体や条件によって異なります。