海のにおいは、何のにおいなの?
― 正体は、プランクトンが食べられるときに出るガスです
海が見える前から、「あ、海だ」と鼻で分かることがあります。あの潮の香りは、塩のにおいではありません。目に見えない小さな植物が、食べられたりこわれたりするときに出すガスです。しかも鼻は、そのガスが空気のほんのひとかけらでも気づきます。
車の窓を少し開けて、海沿いの道へ向かっています。まだ建物にさえぎられて、海は見えません。
それなのに、ふっと独特の香りが入ってきます。少し生ぐさいような、のりのような、なつかしいにおいです。
ところが、食塩を水にとかしても、あのにおいはしません。では、鼻は何をかぎ取っているのでしょうか。
潮の香りの正体は、2つのことで説明できます
海に浮かぶ植物プランクトンは、体の中に「DMSP」という物質をためています。これが分解されると、「硫化ジメチル(DMS)」というガスが生まれます。これが潮の香りの主役です。
硫化ジメチルは、ごく薄くてもにおう物質です。空気の分子およそ3億個のなかに1個まじるだけで、人はにおいを感じるとされます。だから海が見える前に分かるのです。
つまり、潮の香りは「海水そのもの」のにおいではありません。海の中で生き物どうしが食べたり食べられたりしている、その現場から立ちのぼる合図なのです。
プランクトンが「食べられる」と、においが出る
植物プランクトンは、塩からい海水の中で体の水分を保つために、DMSPをためていると考えられています。DMSPそのものは、ほとんどにおいません。
変化が起きるのは、プランクトンの細胞がこわれるときです。小さな動物プランクトンにかじられたり、ウイルスや細菌に壊されたりすると、中身が外へ出ます。そこで酵素がDMSPを切り分け、硫化ジメチルができます。
硫化ジメチルは水にとけにくく、海面から空気へ逃げていきます。図1を見てください。左下の海の中で生まれたガスが、上向きの矢印のように空へ広がり、右側の人の鼻や、上の海鳥、雲にまで届きます。
このにおいは、海鳥への「ここに餌がある」という合図
人にとっては風情のある香りですが、海鳥にとっては生きるための情報です。ミズナギドリやアホウドリのなかまは、鳥としては鼻がよく利くことで知られています。
動物プランクトンが植物プランクトンをさかんに食べている場所では、硫化ジメチルが濃くなります。そこには動物プランクトンを食べる小魚やオキアミも集まります。海鳥は、においの濃いほうへ飛ぶことで、見渡す限り同じに見える海から餌場を探し当てているとされます。
ところが近年、困ったことも分かってきました。海をただようプラスチックの表面には藻がつき、同じにおいを出すことがあるのです。海鳥がプラスチックを餌と間違えて飲みこむ理由の1つと考えられています。
硫化ジメチルは、海だけのにおいではありません。青のりの香りや、キャベツやとうもろこしをゆでたときのにおいにも含まれるとされます。濃いと不快なにおいですが、薄いと「海らしさ」や「おいしそう」に感じる。においは、量で印象ががらりと変わります。
海に着いた直後は強く感じたにおいも、数分たつと気にならなくなります。においが消えたのではありません。鼻と脳が、変わらない刺激への反応を弱めているのです。新しい変化に気づきやすくするための、体のしくみです。
まとめ
潮の香りは塩のにおいではなく、植物プランクトンがためたDMSPがこわれてできる硫化ジメチルのにおいです。ごく薄くても鼻が気づくので、海が見える前から分かります。そのにおいは、海鳥を餌場へ導き、雲のでき方にも関わるとされています。
潮の香りは、海の中の「食べる・食べられる」が
空気にまで届いた知らせです。
においが空気から生まれる話は雨のにおいの記事でも、においで道を探す生き物の話はサケが生まれた川に帰る記事でも紹介しています。
- 海に行ったら、風が海から吹いている時間と、陸から吹いている時間で、においの強さをくらべてみましょう。海からの風のほうが、においを運んできます。
- 浜に着いた直後と、10分ほどたったあとで、においの感じ方が変わるかを確かめてみましょう。鼻が慣れていくのが分かります。
- 家では、青のりの袋を開けたときの香りをかいでみましょう。海辺のにおいと、どこか似ていると感じるかもしれません。
においの感じ方には個人差があります。海辺では波打ちぎわに近づきすぎず、足もとに気をつけて観察してください。
もっと知りたい人へ ― 用語・数式・教科書とのつながり中学理科から大学の専門科目まで、どのレベルの話かを明示しています
- 中学中学校の理科で習う範囲
- 高校高校の「化学」「生物」で習う範囲
- 高校+高校の発展、または教科書のコラム扱いの内容
- 大学高校では習わない、大学の専門科目(海洋化学・大気化学・感覚生理学)の内容
- 研究大学でも「定説」として教わらない、いま研究者が調べている最中の話
中学用語:この現象には名前があります
- 硫化ジメチル(DMS):硫黄原子1個に、炭素と水素のかたまり(メチル基)が2つついた小さな分子。潮の香りの主な成分とされます。
- DMSP(ジメチルスルホニオプロピオン酸):植物プランクトンや海藻が体にためる物質。分解されると硫化ジメチルができます。
- においの閾値(いきち):人がにおいに気づける、いちばん薄い濃さのこと。物質ごとに大きく異なります。
中学高校式で確かめる:ひと呼吸で、においの分子はいくつ鼻に入るの?
人がにおいに気づける、いちばん薄い硫化ジメチルの空気を、ひと呼吸ぶん吸いこんだとします。そのとき鼻に入る硫化ジメチルの分子の数を、気体の式から出してみます。
| 記号で書くと | N = x × ( P × V ÷ ( R × T ) ) × NA |
| 言葉で書くと | においの分子の数 = 混ざる割合 ×(吸った空気のモル数)× 1モルあたりの分子の数 |
| どこから来る式か | 理想気体の状態方程式(圧力 × 体積 = モル数 × 気体定数 × 温度)で空気のモル数を出し、アボガドロ定数で分子の数に直したもの |
| 記号 | 意味と単位 |
| N | 鼻に入る硫化ジメチルの分子の数(個) |
| x | 空気の分子のうち、硫化ジメチルの分子が占める割合 |
| P | 空気の圧力(パスカル) |
| V | ひと呼吸で吸う空気の体積(立方メートル) |
| R | 気体定数(ジュール毎モル毎ケルビン) |
| T | 絶対温度(ケルビン) |
| NA | アボガドロ定数(1モルあたりの分子の数) |
| 気体定数 R | 8.31 |
| 20℃の絶対温度 T(ケルビン) | 293 |
| 1気圧 P(パスカル) | 101300 |
| ふつうのひと呼吸の量 V | 0.5 リットル |
| アボガドロ定数 NA(単位は「垓個」。1垓は1兆の1億倍) | 6020 |
| 硫化ジメチルのにおいの閾値 x(三点比較式臭袋法による測定値とされる) | 10億分の3 |
| 気体定数 × 温度 | 8.31 × 293 = 2434.83 |
| 1モルの空気の体積(立方メートル) | 2434.83 ÷ 101300 ≒ 0.0240 |
| リットルに直す | 0.0240 × 1000 = 24 |
| ひと呼吸の空気のモル数 | 0.5 ÷ 24 ≒ 0.0208 |
| ひと呼吸の空気の分子の数(垓個) | 0.0208 × 6020 ≒ 125 |
| 垓個を兆個に直す | 125 × 100000000 = 12500000000 |
| 10億個に1個なら(兆個) | 12500000000 ÷ 1000000000 = 12.5 |
| 10億個に3個のとき、鼻に入る硫化ジメチル(兆個) | 12.5 × 3 = 37.5 |
いちばん薄い潮の香りでも、ひと呼吸で約37兆個の分子が鼻に入っています。それでも空気全体から見れば、3億個に1個しかありません。
| 東京ドームの容積(立方メートル)とされる値 | 1240000 |
| 10億分の1の量 | 1240000 ÷ 1000000000 = 0.00124 |
| 10億分の3の量(立方メートル) | 0.00124 × 3 = 0.00372 |
| リットルに直す | 0.00372 × 1000 = 3.72 |
東京ドームいっぱいの空気に、硫化ジメチルの気体をペットボトル2本分ほど混ぜただけ。人の鼻は、それくらいの薄さで気づくことになります。
高校高校+なぜ水から空気へ逃げるのか
高校硫化ジメチルは、分子が小さく、水となじむ部分をほとんど持ちません。そのため沸点が約37℃と低く、水にもとけにくい物質です。海面近くで生まれると、気体として空気へ出ていきやすいのです。
高校+水と空気の間で、気体がどれだけとけるかの比は「ヘンリーの法則」で表されます。硫化ジメチルは海水中より空気中にいたほうが安定な側にあり、さらに風で海面が波立つほど、空気へ出る速さが増すとされています。
大学酵素と、雲への影響
DMSPを硫化ジメチルとアクリル酸に切り分ける酵素は「DMSPリアーゼ」と呼ばれ、藻類と細菌の両方が持つとされます。空気に出た硫化ジメチルは、光化学反応でできる活性の高い分子によって酸化され、最後は硫酸の微粒子になります。この微粒子が雲粒の核(雲凝結核)になるため、1987年に「植物プランクトンが雲を通じて気候を調節している」というCLAW仮説が提案されました。人のにおいの感じ方は、嗅覚受容体にどの分子がどれだけ結びつくかで決まります。
📖 式の導出や、さらに先の内容:硫化ジメチル(ウィキペディア) / 理想気体(ウィキペディア)
研究まだはっきりとはわかっていないこと
- プランクトンが雲を通じて気候を調節しているのか。 CLAW仮説は広く検証されてきましたが、2011年には「調節の効果は想定より小さい」とする総説も出され、結論は出ていません。
- なぜプランクトンはDMSPをためるのか。 塩分への対応のほか、細胞を傷める物質を消す働きや、食べられにくくする働きなど、複数の説があります。
- 鼻がどうやって硫黄のにおいを鋭く感じるのか。 硫黄を含むにおいの検出に、受容体と銅イオンが関わるという報告があり、仕組みは調べられている最中です。
つまりこの記事の内容も、「いまわかっている範囲での説明」です。潮の香りの成分には、海藻などが出す別の物質も混ざっていると考えられています。
教科書とのつながり(レベル別)
| レベル | 科目・単元 | この記事のどこ |
|---|---|---|
| 中学 | 理科「生物どうしのつながり」・「物質のすがた」 | 食べる・食べられるの関係、気体の性質 |
| 高校 | 化学「気体の状態方程式」・「物質量」 | ひと呼吸の分子の数の計算 |
| 高校+ | 化学「気体の溶解度」 | ヘンリーの法則と、海から空気へ出るしくみ |
| 大学 | 海洋化学・大気化学・感覚生理学 | DMSPリアーゼ、雲凝結核、嗅覚受容体 |
| 研究 | 海洋生態学・気候科学 | CLAW仮説の検証、海鳥とプラスチック |
| ― | 生活とのつながり | 海辺の香り、青のりやゆで野菜のにおい |
- ウィキペディア日本語版「ジメチルスルフィド(硫化ジメチル)」
- Charlson, Lovelock, Andreae, Warren (1987) Oceanic phytoplankton, atmospheric sulphur, cloud albedo and climate. Nature 326
- Nevitt, Veit, Kareiva (1995) Dimethyl sulphide as a foraging cue for Antarctic Procellariiform seabirds. Nature 376
- Savoca et al. (2016) Marine plastic debris emits a keystone infochemical for olfactory foraging seabirds. Science Advances 2
- 永田好男・竹内教文「三点比較式臭袋法による臭気物質の閾値測定結果」日本環境衛生センター所報
- Quinn, Bates (2011) The case against climate regulation via oceanic phytoplankton sulphur emissions. Nature 480
※本記事は一般向けの科学解説です。掲載した数値は、しくみを理解するための目安・概算です。においの閾値は測定方法や個人によって大きく異なります。