海の中に「川」が流れていると、どうやって分かったの?
― 郵便船が遅れる理由を、捕鯨船の船長が知っていました
海の真ん中には、岸も堤防もないのに、幅100 kmほどの「川」が流れています。最初にそれを地図に描いたのは、学者ではありませんでした。毎日のように海の上で暮らしていた、クジラ捕りの船乗りたちです。
動く歩道を、逆向きに歩いたことはありますか。いつもの調子で足を動かしているのに、景色がなかなか進みません。もう少しゆっくり歩けば、その場で足踏みするだけになり、やがて後ろへ運ばれていきます。
18世紀の大西洋で、これとまったく同じことが船に起きていました。イギリスからアメリカへ手紙を運ぶ郵便船が、なぜか商船よりも2週間ほど遅く着いたのです。郵便船のほうが立派な船だったのに、です。
この謎を解いたのは、海の上に見えない「動く歩道」があると知っていた人たちでした。
海の「川」が見つかるまでに、何があったの?
海の流れは目で見えません。でも、流れに逆らう船は遅れ、流れに乗る船は速く着きます。郵便船の「謎の遅れ」こそが、流れの証拠でした。
クジラは流れのふちに集まります。それを追う捕鯨船の船長たちは、流れの場所も幅も、体で覚えていました。その知識が、初めて紙の上に描かれたのです。
しかも、この「川」は海のどこにでもあるわけではありません。大きな海の西の端にだけ、細く速く流れています。日本の南を流れる黒潮も、その仲間です。順番に見ていきましょう。
郵便船は、なぜ2週間も遅れたの?
1768年ごろ、ロンドンにいたベンジャミン・フランクリンのもとに、ある苦情が届いたとされています。フランクリンは、アメリカ植民地の郵便を取りしきる役目についていました。苦情の中身は「イギリスからの郵便船は、ニューヨークに着くまでに、商船より2週間ほど長くかかる」というものでした。
フランクリンは、いとこのティモシー・フォルジャーに相談しました。フォルジャーは、アメリカの島ナンタケットの捕鯨船の船長です。彼の答えは明快でした。「郵便船は、強い流れの中を、流れに逆らって進んでいるのです」。
フォルジャーによれば、捕鯨船の船長たちは郵便船に何度もそれを教えていました。けれども、郵便船の船長たちは聞き入れなかったといいます。アメリカの漁師の助言など、と軽く見ていたのかもしれません。
流れに逆らうと、どれほど損をするのでしょうか。図1のつまみで、船が水をかき分けて進む速さを変えてみてください。下の矢印が、実際に地面(海底)に対して進む速さです。
海流が秒速1.5 mのとき、船が秒速2.5 mで進んでも、実際には秒速1 mにしかなりません。風が弱い日には、帆船はその場で押し戻されてしまいます。フォルジャーも、風が弱いと船は進むより多く押し戻される、と語ったとされています。2週間の遅れは、この積み重ねでした。
なぜ、クジラ捕りだけが流れを知っていたの?
捕鯨船は、何か月も同じ海域を行ったり来たりします。目的地へまっすぐ急ぐ郵便船とは、海との付き合い方がまるで違いました。クジラは、流れのふちにある餌の多い場所に集まるとされています。だから捕鯨船は、流れのふちに沿ってクジラを追い、ときには流れを横切りました。
流れの中に入ると、水の色や温度が変わり、海藻が浮かび、船は横へ流されます。こうした手がかりを何度も体験するうちに、船長たちの頭の中には「流れの地図」ができあがっていました。
フランクリンはフォルジャーに流れの位置を描いてもらい、海図として印刷させました。これが、メキシコ湾流を描いた初期の海図の一つです。ただ、イギリスの船乗りたちは、しばらくそれを使わなかったといわれています。
フランクリン自身は、そのあと大西洋を渡るたびに、温度計で海の水の温度を測りました。湾流の水は、まわりより暖かいのです。目に見えない流れを、温度という数字でとらえようとした、早い例の一つとされています。
1513年、スペインの探検隊はフロリダの沖で、追い風なのに船が後ろへ下がるのを経験したとされています。その後スペインの船団は、この流れに乗ってヨーロッパへ帰るようになりました。流れの存在は知られていても、「どこを、どれくらいの幅で流れているか」を地図にしたのが、フランクリンとフォルジャーでした。
なぜ「川」は、海の西の端にだけ流れるの?
大西洋の北半分では、低い緯度で東から西へ貿易風が、高い緯度で西から東へ偏西風が吹いています。この二つの風に引きずられ、海の表面は大きな輪になって時計回りに回ります。図2を見てください。
ここで不思議なのは、輪が左右対称ではないことです。北へ向かう流れは西の端で幅100 kmほどに絞られ、速いところで秒速2 mほどになるとされています。一方、南へ戻る流れは海の大部分に広がり、ゆっくりとしか動きません。
この片寄りを生むのは、地球の自転です。回る地球の上では、北へ行くほど「回転の効き目」が強くなります。その差のせいで、南へ戻る流れは広い海でゆっくり進めます。一方、北へ向かう流れは、西の岸に押しつけられた細い通り道に集まるしかありません。1948年、アメリカの海洋学者ヘンリー・ストンメルが、簡単な計算でこのしくみを示しました。
北太平洋でも同じことが起きています。太平洋の西の端、つまり日本の南岸を流れるのが黒潮です。黒潮もまた、日本の漁師たちが昔から名前をつけて知っていた「海の川」でした。
メキシコ湾流が運ぶ水の量は、世界中の川をすべて合わせた流れの、数十倍以上とされています。幅は100 kmほど、深さは1 kmに届くところもあります。それでも、海の上から見るだけでは、流れの境目はほとんど分かりません。
まとめ
海の中には、岸のない「川」が流れています。それを最初に地図にしたのは、郵便船の謎の遅れと、クジラを追う船長たちの経験でした。そしてその川は、風と地球の自転のはたらきで、大きな海の西の端に細く速く集まります。日本のすぐそばを流れる黒潮も、その一つです。
見えない流れは、まず「遅れ」として現れた。
海の地図を最初に描いたのは、海で暮らす人の経験でした。
地球の自転が流れの向きにどう効くかは「お風呂の渦は、南半球では逆回りになるって本当?」で、陸の川が曲がっていくしくみは「川はなぜまっすぐ流れず、蛇行するの?」で詳しく紹介しています。黒潮が運ぶ暖かい水と魚の関係は「サンマは、なぜ秋になると脂がのっておいしくなるの?」もどうぞ。
- お風呂やたらいに水を張り、手でかき回して、ゆっくり一方向に回る流れをつくります。
- 小さな紙の舟(または消しゴムのかけら)を、指で同じ強さで押して、流れに乗せる向きと逆らう向きで進ませてみます。
- 同じ距離を進むのにかかる時間を、2つの向きで比べます。押す力を弱くすると、逆向きでは舟が戻されるのも確かめましょう。
水の動きが見えにくいときは、こしょうを少し浮かべると流れが見えます。目に見えない流れを「時間の差」で見つけるのは、フランクリンが郵便船の遅れから湾流にたどり着いたのと同じ考え方です。
もっと知りたい人へ ― 用語・数式・教科書とのつながり中学理科から大学の専門科目まで、どのレベルの話かを明示しています
- 中学中学校の理科で習う範囲
- 高校高校の「物理基礎」「地学」で習う範囲
- 高校+高校の発展、または教科書のコラム扱いの内容
- 大学高校では習わない、大学の専門科目(海洋物理学・地球流体力学)の内容
- 研究大学でも「定説」として教わらない、いま研究者が調べている最中の話
中学用語:この現象には名前があります
- 海流:海の中を、ほぼ決まった道すじで流れ続ける大きな流れ。潮の満ち引きによる流れ(潮流)とは別のものです。
- メキシコ湾流・黒潮:北大西洋と北太平洋の、西の端を北へ流れる強い海流。どちらも世界最大級の海流です。
- 環流:大洋全体をめぐる、大きな輪の形の海流の組み合わせ。北半球の大洋では時計回りに回ります。
中学高校式で確かめる:流れに逆らうと、何日遅れるか
船が水をかき分ける速さから、海流の速さを引いたものが、実際に進む速さです。仮に、流れに逆らって1000 kmを進む場面で、遅れを見積もってみます。
| 記号で書くと | t = L ÷ ( v − u ) |
| 言葉で書くと | かかる時間 = 進む距離 ÷(船が水をかき分ける速さ − 海流の速さ) |
| どこから来る式か | 速さの合成(相対速度)。陸から見た船の速さは、水に対する船の速さと、水そのものの速さの足し合わせになる。逆向きの流れは引き算になる。 |
| 記号 | 意味と単位 |
| L | 流れに逆らって進む距離。仮に 1000 km |
| v | 帆船が水をかき分ける速さ。仮に 秒速 2.5 m |
| u | 海流の速さ。秒速 1.5 m(湾流の速いところは秒速2 mほどとされる) |
| 1日の秒数 | 86400 秒 |
| 秒速1 mで1日に進む距離(km) | 86400 ÷ 1000 = 86.4 |
| 実際に進む速さ v − u(秒速 m) | 2.5 − 1.5 = 1.0 |
| 1日に進む距離(km) | 1.0 × 86.4 = 86.4 |
| 流れに逆らって 1000 km 進む日数 t | 1000 ÷ 86.4 ≒ 11.6 |
| 流れがない場合の1日の距離(km) | 2.5 × 86.4 = 216 |
| 流れがない場合の日数 | 1000 ÷ 216 ≒ 4.6 |
| 遅れ(日) | 11.6 − 4.6 = 7.0 |
流れに逆らうだけで、約1週間の遅れになります。さらに風が弱く、船の速さが秒速1.0 mに落ちた日は、v − u が −0.5 になり、船は押し戻されます。
| 押し戻される1日の距離(km) | 0.5 × 86.4 = 43.2 |
| 身近な距離でいうと | フルマラソン1回ぶん(約42 km)とほぼ同じ距離を、1日で失う |
こうした日が何日か重なれば、2週間の差がついても不思議ではありません。逆に、流れに乗れば同じ数字だけ得をします。スペインの船団が帰りに湾流を使ったのは、このためです。
高校高校+風が海を動かし、自転が向きを曲げる
高校地学では、貿易風と偏西風が表面の海水を引きずり、北半球の大洋に時計回りの環流ができることを学びます。物理基礎の「相対速度」は、上の式そのものです。
高校+回る地球の上で動く水には、北半球では進む向きの右へ曲げる見かけの力(コリオリの力)がはたらきます。そのため、風に引きずられた表面の水は、風の向きそのものではなく、風の右の方向へ運ばれます。これをエクマン輸送と呼びます。偏西風と貿易風のあいだに水が寄せ集められ、海面がわずかに盛り上がることが、環流を回す力のもとになります。
大学西岸強化:なぜ西の端だけが速いのか
環流が西に片寄って強くなる現象は西岸強化と呼ばれ、その強い流れを西岸境界流といいます。風が海に与える回転と、緯度によるコリオリの力の変化(ベータ効果)がつり合う関係をスベルドラップの関係といい、これだと大洋の内部の流れは広くゆっくり南へ向かいます。戻りの水を北へ運ぶために、摩擦が効く西の端に細い流れが必要になる、というのがストンメル(1948年)の示した答えで、その後ムンクが渦の粘性を入れた形に発展させました。
📖 式の導出や、さらに先の内容:ウィキペディア「西岸境界流」 / ウィキペディア「メキシコ湾流」
研究まだはっきりとはわかっていないこと
- ヨーロッパの冬は、湾流のおかげで暖かいのか。 よく言われる説明ですが、大気が運ぶ熱の役割のほうが大きいとする研究もあり、どれだけが海流のおかげかは議論が続いています。
- 大西洋の大きな循環は弱まっているのか。 温暖化で北の海の水が軽くなると、深い海までつながる循環が弱まるおそれが指摘されています。ただ、観測の期間が短く、どこまで弱まっているかは見方が分かれています。
- 黒潮の大蛇行は、なぜ始まり、なぜ終わるのか。 黒潮は、ときに紀伊半島の沖で大きく南へ曲がり、その状態が何年も続きます。始まりと終わりを前もって言い当てることは、まだ難しいとされています。
つまりこの記事の内容も、「いまわかっている範囲での説明」です。海流の位置や強さは、人工衛星で海面の高さを測れるようになった今でも、毎年少しずつ揺れ動いています。
教科書とのつながり(レベル別)
| レベル | 科目・単元 | この記事のどこ |
|---|---|---|
| 中学 | 理科2年「天気とその変化」(大気と海の動き) | 海流・環流という言葉 |
| 高校 | 物理基礎「相対速度」/地学「海洋の循環」 | 図1と式で確かめる、図2 |
| 高校+ | 地学の発展「コリオリの力・エクマン輸送」 | 風が海を動かすしくみ |
| 大学 | 海洋物理学・地球流体力学 | 西岸強化・スベルドラップの関係 |
| 研究 | 気候変動と海洋循環 | 湾流とヨーロッパの気候、黒潮の大蛇行 |
| ― | 生活とのつながり | 漁場、船の航路、日本の気候と黒潮 |
- ウィキペディア「メキシコ湾流」
- ウィキペディア「西岸境界流」
- Richardson, P. L. (1980). Benjamin Franklin and Timothy Folger's first printed chart of the Gulf Stream. Science, 207.
- Stommel, H. (1948). The westward intensification of wind-driven ocean currents. Transactions, American Geophysical Union, 29.
- Stommel, H. (1965). The Gulf Stream: A Physical and Dynamical Description. University of California Press.
※本記事は一般向けの科学解説です。掲載した数値は、しくみを理解するための目安・概算です。歴史上のやりとりは、残された手紙や記録にもとづく通説として紹介しています。