クジラの声は、なぜ数百kmも離れた仲間に届くの?
― 深い海に隠れた、音の「通り道」
人の声は、大声を出しても数百メートル先まで届けばいいほうです。ところがクジラの低い声は、数百kmから、条件がそろえば1000kmを超えて離れた仲間にまで届くことがあるとされています。同じ「音」なのに、なぜこれほど遠くまで伝わるのでしょうか。
広い海の真ん中で、1頭のクジラが低く長い声を出します。声は水の中を進んでいき、はるか遠くにいる別のクジラの耳に届きます。その距離は、東京から大阪、あるいはそれ以上に相当することもあるとされています。
プールの中で叫んでも、声はせいぜい数十メートルで聞き取りにくくなります。同じ水の中を進む音なのに、なぜクジラの声だけがこれほど遠くまで届くのでしょうか。
遠くまで届く理由は、2つがそろっている
海の中には、音の速さが特に遅くなる層があるとされています。この層は音を閉じ込めて遠くまで運ぶ、天然の通り道としてはたらきます。
低い音(低周波)は、高い音に比べて水に吸収されにくく、エネルギーを失いにくいまま遠くまで伝わっていくとされています。
この2つがそろって、はじめて数百km先まで声が届きます。順番に見ていきましょう。
理由1:深海に隠れた、音の「通り道」
音の伝わる速さは、水の温度や水圧によって変わります。海の表面近くは太陽で温められていて、音は速く進みます。深くなるにつれて水温はどんどん下がり、音の速さも遅くなっていきます。
ところが、あるところまで深くなると、今度は水圧の効果のほうが強くなり、水温がほとんど変わらなくても音の速さはふたたび速くなっていきます。つまり、水深に沿って音の速さをたどると、あるくぼんだ深さで最も遅くなる場所があるということです。
音は、速さがゆるやかに変化する中を進むとき、遅いほうへ向かって少しずつ進路が曲がる性質があります。この性質のおかげで、この「最も遅い深さ」の近くを進む音は、上下に逃げていかず、その深さのまわりを行ったり来たりしながら、ほぼまっすぐ遠くまで運ばれていきます。この通り道はサウンドチャネルと呼ばれています。「進む速さがゆるやかに変わる場所で、波の進路が曲がる」という同じ性質は、夜に遠くの音がよく聞こえる理由や、蜃気楼が見える理由にも共通しています。
理由2:低い声ほど、遠くまで届く
音が水の中を進むとき、少しずつエネルギーが熱に変わって弱まっていきます。この弱まり方は、音の高さによって違い、高い音ほど強く吸収され、低い音ほど吸収されにくいとされています。
クジラ、とくにシロナガスクジラやナガスクジラの声は、人の耳にはほとんど聞き取れないほど低い音(低周波)でできているとされています。低い音であるおかげで、水に吸収されにくいまま、長い距離を進むことができます。
このサウンドチャネルは、遠くの海で起きた地震や火山活動、あるいは船の音を、遠く離れた場所で検知するためにも利用されているとされています。クジラが使っている通り道を、人間の観測機器も間借りしているようなものです。
手元で確かめられること
- 壁やドアの向こうにいる人に、できるだけ低い声(太い声)でうなってもらう
- 次に、できるだけ高い声(甲高い声)で同じ長さ、声を出してもらう
低い声のほうが、壁の向こうでもよく聞こえたはずです。空気と水で細かい違いはありますが、「低い音ほど遠くまで、障害物を越えても届きやすい」という傾向は共通しています。クジラの低い声も、同じ理屈の延長線上にあります。
まとめ
クジラの声が遠くまで届くのは、①深い海に音を閉じ込めて運ぶサウンドチャネルがあること、②クジラの声そのものが、吸収されにくい低い音でできていること――この2つがそろっているからです。
クジラは、大声を出しているだけではありません。
海という巨大な楽器の、いちばん通りのよい音域を選んで歌っているのです。
もっと知りたい人へ ― 用語・数式・教科書とのつながり中学理科から研究中の話題まで、どのレベルの話かを明示しています
- 中学中学校の理科で習う範囲
- 高校高校の「物理基礎」で習う範囲
- 高校+高校の「物理」、または教科書の発展・コラム扱いの内容
- 大学高校では習わない、大学の専門科目(海洋音響学)の内容
- 研究大学でも「定説」として教わらない、いま研究者が調べている最中の話
中学用語:クジラの声をめぐる言葉
- 低周波:振動の回数(周波数)が少ない、低い音。
- 屈折:音や光が、速さの違う場所を通るときに、進む向きが曲がること。
- サウンドチャネル:海の中にある、音の速さが最も遅い深さを中心とした、音が閉じ込められて遠くまで伝わる層。
- 吸収:音のエネルギーが、進む間に少しずつ熱などに変わって弱まること。
中学高校式で確かめる:通り道があると、どれくらい遠くまで届くのか
音が広がるとき、四方八方(球状)に広がるか、チャネルの中の一つの帯(円柱状)に閉じ込められて広がるかで、届く強さの弱まり方が違います。ここは計算で、その差がはっきりわかります。
音の強さの目安 = 基準の強さ ÷ (距離の何乗か)
| 自由に球状へ広がる場合 | 強さは、距離の2乗に反比例して弱まるとされる |
| チャネルに閉じ込められた場合 | 強さは、距離の1乗(そのまま)に反比例して弱まるとされる |
同じ距離だけ離れても、弱まり方の「速さ」が違います。この差は、距離が大きくなるほど広がっていきます。
| 自由に球状へ広がる場合の強さの比 | 1 ÷ 1000 ÷ 1000 = 0.000001 [倍] |
| チャネルに閉じ込められた場合の強さの比 | 1 ÷ 1000 = 0.001 [倍] |
| チャネルのほうが何倍強く残るか | 0.001 ÷ 0.000001 = 1000 [倍] |
同じ距離だけ離れても、チャネルに閉じ込められた音は、自由に広がる場合の1000倍もの強さで残るという計算になります。
自由に広がるだけなら、1000倍遠くでは音の強さが百万分の1になってしまい、とても聞き取れません。ところがチャネルの中では、同じ距離でも千分の1で済みます。「百万分の1」と「千分の1」――この差が、クジラの声を数百km先まで運んでいるというわけです。
高校+大学音の速さは、何で決まるのか
水中での音の速さは、水温・塩分・水圧の3つで決まるとされています。表層では水温の効果が大きく、深くなるほど水温が下がるにつれて音速も下がります。ある深さ(一般に水深600〜1200m程度とされる)を超えると水温の変化はわずかになり、代わりに水圧の効果(深いほど水を伝わりやすくする)が上回るため、音速はふたたび上がっていきます。この、水温の効果と水圧の効果が入れ替わる深さの付近に、音速が最小になる層ができます。これが理由1で説明したサウンドチャネルの正体です。
チャネルの中を進む音が球状ではなく円柱状に広がるのは、上下方向には閉じ込められて広がれず、水平方向にだけ広がっていくためです。この違いが、②の計算で見た「距離の1乗」と「距離の2乗」の差を生んでいます。
研究まだよくわかっていないこと
- サウンドチャネルの深さや性質は、海域や季節によって変化するとされており、それを精密に予測し続けることは、いまも海洋音響学の研究課題だとされています。水温や塩分の分布は場所と時期で大きく変わるためです。
- 船のスクリュー音などの人間活動による海の中の騒音が増えたことで、クジラの声が届く実質的な距離が縮んでいる可能性が指摘されていますが、その影響の大きさを正確に見積もることはまだ難しいとされています。
- クジラの低い声に、仲間の位置を伝える以上のどのような情報が込められているのかは、まだ十分に解明されていないとされています。歌の細かいパターンの意味を読み解く研究は、いまも続けられています。
海の中で毎日響いているクジラの声も、その伝わり方の細部やそこに込められた意味は、いまも研究の対象です。身近さと、わかっているかどうかは、別のことです。
教科書とのつながり(レベル別)
| レベル | 科目・単元 | この記事のどこ |
|---|---|---|
| 中学 | 理科・音の性質(振動数と高さ) | 低周波、屈折の基本 |
| 高校 | 物理基礎・波の性質 | 強さの弱まり方の計算 |
| 高校+ | 物理・波の伝わり方(発展) | 球状と円柱状の広がり方の違い |
| 大学 | 海洋音響学・海洋物理学 | 音速の深さ分布、サウンドチャネルの形成 |
| 研究 | 海洋音響学・行動生態学(未解決) | チャネルの季節変化、海洋騒音の影響、鳴き声の意味 |
| ― | 身近な観察 | 壁越しの低い声と高い声の聞こえ方の違い |
- 海洋音響学の教科書における、音速の深さ分布(音速プロファイル)とサウンドチャネル(SOFARチャネル)の形成に関する一般的な記述。
- 海洋生物音響学に関する研究レビュー(大型鯨類の低周波音の伝搬距離に関する知見)。
- 物理の教科書における、球面波・円柱波の減衰と距離の関係に関する一般的な記述。
- 海洋の人為的騒音(シップノイズ)が海洋生物のコミュニケーションに与える影響に関する研究レビュー。
※ サウンドチャネルの深さ・伝搬距離などの数値は、海域や条件によって幅があります。本記事では一般に用いられる目安を示しました。
※本記事は一般向けの科学解説です。音速・伝搬距離などの数値は海域や文献により幅があり、しくみを理解するための目安として示しています。