漆(うるし)は、なぜ湿気の多い場所で乾かすの?
― 漆は「乾く」のではなく、水の中で「固まる」塗料です
洗濯物は、晴れて空気が乾いた日によく乾きます。ところが漆職人は、塗ったばかりのおわんを、わざわざ湿った箱にしまいます。逆さまに見えるこの知恵には、漆が「水が抜けて乾く」塗料ではない、という理由がありました。
お正月に使う、つやつやした赤や黒のおわん。あの表面は、木の器に漆という樹液を何度も塗り重ねたものです。
漆の工房には、「漆風呂(うるしぶろ)」と呼ばれる木の戸棚があります。職人は内側の壁を水でぬらしてから、塗りたての器をそこへ入れて戸を閉めます。
湿った戸棚で、塗料が乾く。ふつうの感覚とは正反対です。けれど、からりと乾いた部屋に置いた漆は、いつまでもべたべたしたままになってしまうのです。
湿気が必要な理由は、2つあります
ペンキの多くは、水や溶かす液が蒸発して乾きます。漆は違います。空気中の酸素を使って、小さな分子どうしが手をつなぎ、網の目になって固まるのです。
分子をつなぐのは、漆に含まれる「酵素」というたんぱく質です。酵素は水がないと働けません。空気が乾いていると水が先に逃げ、酵素が止まってしまいます。
つまり漆風呂は、乾かすための部屋ではありません。酵素が仕事を終えるまで、水を逃がさないための部屋なのです。順番に見ていきましょう。
漆は、どうやって固まるの?
漆は、ウルシの木の幹に傷をつけて集める樹液です。1本の木から採れるのは、ひと夏で牛乳びん1本分(約200グラム)ほどとされています。
採れたての漆の中身は、大きく3つに分けられます。いちばん多いのが、固まって膜になる油のような成分です。次に多いのが水で、全体の2〜3割を占めるとされています。そして、ほんのわずかに酵素が混ざっています。
図1を見てください。左が塗った直後の漆です。油のような分子が、細かな水の粒とばらばらに混ざっています。酵素はこの水の粒の中にいて、空気から溶けこんだ酸素を使い、分子に「つなぎ目」を作ります。
つなぎ目のできた分子は、となりの分子とくっつきます。それがくり返されると、右のような網の目ができあがります。網の目は、もう水にも油にも溶けません。これが、漆が「固まった」状態です。
なぜ、乾いた空気だと固まらないの?
酵素は、水に囲まれていないと形を保てず、働けなくなります。ところが塗った漆の膜はとても薄く、空気が乾いていると、中の水はどんどん逃げていきます。
水が先にいなくなると、酵素は分子をつなぎ終える前に止まってしまいます。網の目が中途半端なまま残るので、表面はいつまでもべたつきます。
図2のつまみで、部屋の湿度を変えてみてください。左の柱は、空気が含める水蒸気の上限です。青い部分が実際に含んでいる量で、上の空いた部分が「まだ含める余地」です。この余地が大きいほど、膜から水を引き出す力が強くなります。
職人が漆風呂を、およそ温度20〜30℃、湿度70〜85%に保つのはこのためだとされています。湿度を上げすぎてもいけません。表面だけが急に固まって中がやわらかいまま残り、ちりめんのような「縮み」というしわが寄ってしまいます。
手でさわってもくっつかなくなるまでは、半日から1日ほどとされています。けれど網の目をつなぐ反応は、そのあとも何か月、何年とゆっくり続くと考えられています。古い漆器ほど丈夫だと言われるのは、このためです。いっぽうで漆は日光の紫外線には弱く、外に出しっぱなしにすると、つやが落ちてしまいます。
漆にさわると肌がかぶれるのは、膜になる成分そのものが原因です。網の目に固まってしまえば、この成分はほとんど外に出てきません。だから、ちゃんと固まった漆のおわんで食事をしても、ふつうはかぶれないとされています。
まとめ
漆は、水が抜けて乾く塗料ではありません。酵素が酸素を使って分子をつなぎ、網の目にすることで固まります。その酵素は水の中でしか働けないので、職人は漆風呂の湿気で水を逃がさないようにしているのです。
漆を乾かすのは、乾いた空気ではない。
水の中で働き続ける、小さな酵素だ。
空気の乾き具合と水の逃げ方については、暖房をつけると、なぜ部屋がカラカラに乾くの?も読んでみてください。水が蒸発するときに何が起きているかは、コーヒーのしずくは、乾くとなぜ輪っかのしみを残すの?でも見ることができます。
- 家にある漆塗りのおわんやはしを探し、表面に水をたらしてみましょう。水をはじき、しみこまないのは、膜が網の目に固まっている証拠です。
- 洗濯物を、乾いた日と雨の日で干してみましょう。湿度が高いほど乾きにくいことが分かります。漆風呂は、この「乾きにくさ」をわざと使っています。
- 天気予報や湿度計で、その日の湿度を見てみましょう。暖房の効いた冬の部屋は、30〜40%まで下がることがあります。漆にとっては乾きすぎの空気です。
※ 生の漆や、漆の木そのものには、かぶれるおそれがあるのでさわらないでください。観察は、完成品の漆器だけにしましょう。
もっと知りたい人へ ― 用語・数式・教科書とのつながり中学理科から大学の専門科目まで、どのレベルの話かを明示しています
- 中学中学校の理科で習う範囲
- 高校高校の「化学」「生物」で習う範囲
- 高校+高校の発展、または教科書のコラム扱いの内容
- 大学高校では習わない、大学の専門科目(高分子化学・酵素化学)の内容
- 研究大学でも「定説」として教わらない、いま研究者が調べている最中の話
中学用語:この現象には名前があります
- ウルシオール:漆の膜になる主な成分。1917年に化学者の真島利行が主成分であることを確かめ、その形を明らかにしました。かぶれの原因でもあります。
- ラッカーゼ:漆に含まれる酵素。酸素を使ってウルシオールを酸化し、分子どうしがつながるきっかけを作ります。
- 湿度(相対湿度):空気が含める水蒸気の上限(飽和水蒸気量)に対して、実際にどれだけ含んでいるかの割合です。
中学高校式で確かめる:乾いた部屋では、水は何倍の速さで逃げる?
膜から水が抜ける速さは、空気に「まだ含める余地」がどれだけあるかで決まります。漆風呂(湿度80%)と、暖房の効いた冬の部屋(湿度40%)をくらべます。温度はどちらも25℃とします。
| 記号で書くと | E = k × ( ρs − ρ ) = k × ρs × ( 1 − H ) |
| 言葉で書くと | 水が抜ける速さ = 係数 ×(上限の水蒸気量 − いまの水蒸気量)= 係数 × 上限 ×(1 − 湿度) |
| どこから来る式か | 水の蒸発の速さは、表面のすぐ上の空気(ほぼ上限まで湿っている)と、まわりの空気との水蒸気の差に比例する、というドルトンの蒸発の法則です。差が大きいほど、水蒸気は外へ広がっていきます。 |
| E | 膜から水が抜ける速さ |
| k | 風の強さなどで決まる係数(2つの部屋で同じとする) |
| ρs | 飽和水蒸気量(空気1立方メートルが含める水蒸気の上限、単位はグラム) |
| H | 湿度(割合。80%なら 0.8) |
| 25℃の飽和水蒸気量 | 約 23 グラム(空気1立方メートルあたり) |
| 漆風呂の湿度 | 80%(0.8) |
| 暖房の効いた冬の部屋の湿度 | 40%(0.4) |
| 漆風呂の空気が含む水蒸気 | 23 × 0.8 = 18.4 グラム |
| 漆風呂の「余地」 | 23 − 18.4 = 4.6 グラム |
| 冬の部屋の空気が含む水蒸気 | 23 × 0.4 = 9.2 グラム |
| 冬の部屋の「余地」 | 23 − 9.2 = 13.8 グラム |
| 水が抜ける速さの比(係数 k は共通なので消える) | 13.8 ÷ 4.6 = 3 |
乾いた冬の部屋では、漆の膜から水が3倍の速さで逃げていきます。酵素が分子をつなぎ終えるまでの時間は湿度ではあまり縮まないので、水だけが先にいなくなります。漆風呂は、この「3倍」を「1倍」に抑えるための箱だといえます。
高校高校+酸化と、網の目の高分子
高校酵素は、たんぱく質でできた「触媒」です。反応を速めますが、自分は変化しません。ただし、まわりの水と温度によって形が保たれているので、乾いたり熱しすぎたりすると働けなくなります。漆の反応は、ウルシオールが酸素によって「酸化」される反応として説明されます。
高校+分子どうしが次々につながって巨大な分子になることを「重合」といいます。漆の場合は、鎖のようにつながるだけでなく、鎖どうしが横にも結ばれた「網目状の高分子」になります。網目状の高分子は加熱しても溶けにくく、溶かす液にも溶けません。漆器が酸やアルコールに強いのは、このためです。
大学銅を含む酵素と、2段階の硬化
ラッカーゼは、銅の原子を4つ持つ酸化酵素(マルチ銅オキシダーゼ)の一種です。ウルシオールのベンゼン環についた2つの水酸基(カテコール部分)から電子を受け取り、酸素を水に還元します。電子を奪われたウルシオールはラジカルになり、ラジカルどうしが結合して重合が進みます。この酵素による段階のあと、ウルシオールの長い側鎖にある二重結合が、空気中の酸素とゆっくり反応する「自動酸化」で架橋され、膜がさらに固くなると考えられています。水分の蒸発については、蒸発速度が水蒸気圧の差に比例するとしたドルトンの蒸発の法則が出発点です。
📖 式の導出や、さらに先の内容:ラッカーゼ(ウィキペディア) / ウルシオール(ウィキペディア)
研究まだはっきりとはわかっていないこと
- 何年も固くなり続けるしくみ。 酵素の段階が終わったあと、自動酸化による架橋がどこまで、どの速さで進むのかは、まだ詳しく調べられている最中です。
- ゴム質の役割。 漆には多糖類(ゴム質)も数%含まれ、水の粒を安定させていると考えられています。膜の丈夫さにどう効いているかは、研究が続いています。
- 縮みが起きる条件。 どの湿度・厚さで表面だけが先に固まりしわが寄るのかは、職人の経験に頼る部分が大きく、数値での予測はまだ難しいとされています。
つまりこの記事の内容も、「いまわかっている範囲での説明」です。職人が経験で身につけた湿度の感覚を、化学がようやく言葉にし始めたところだといえます。
教科書とのつながり(レベル別)
| レベル | 科目・単元 | この記事のどこ |
|---|---|---|
| 中学 | 理科2年「天気とその変化」(湿度・飽和水蒸気量) | 図2の柱、式で確かめる |
| 高校 | 化学「酸化と還元」、生物「酵素」 | 理由2、酸化と酵素の説明 |
| 高校+ | 化学「高分子化合物」(網目状の高分子) | 図1の網の目 |
| 大学 | 高分子化学・酵素化学 | ラッカーゼと自動酸化による2段階の硬化 |
| 研究 | 漆の材料科学・文化財の保存科学 | 長期の硬化、ゴム質、縮みの条件 |
| ― | 生活とのつながり | 漆器の手入れ(日光に当てない・乾燥機に入れない) |
※本記事は一般向けの科学解説です。掲載した数値は、しくみを理解するための目安・概算です。漆の湿度・温度の条件は、漆の種類や職人によって異なります。生の漆はかぶれの原因になるため、素手でさわらないでください。