日常のふしぎ 化学 予備知識なしでOK 読了 約6分

胃は強い酸を出しているのに、なぜ自分は溶けないの?
― 守っているのは、厚さ0.2ミリのぬるぬるです

胃の中は、かたい肉のかたまりを数時間でどろどろにしてしまうほど強い酸でみたされています。ところが、その酸を作っている胃そのものは平気な顔をしています。分厚い壁でできているからではありません。答えは、胃の内側をおおう、ほんの薄いぬるぬるにありました。

公開:2026.09.22 難易度:★☆☆(予備知識なしで読めます) 数式が出てくるのは最後の折りたたみだけ
まず、こんな場面を思い浮かべてください

お腹がすいて、ぐうっと鳴りました。中身はほとんど空っぽなのに、胃はもう酸を出しています。

その酸は、レモン汁よりずっと強いものです。もし指にたっぷり付いたままにすれば、皮膚はひりひりして荒れてしまいます。

胃は、それを毎日1リットル以上、自分の内側に注いでいます。それでも次の日も、そのまた次の日も、胃は無事です。なぜでしょう。

理由は2つだけです

1
酸は、胃のかべに届く前に弱められている

胃の内側は、ぬるぬるした粘液の層でおおわれています。その層の中へ、胃のかべ自身がアルカリをしみ出させています。酸はこの層を進むうちに中和され、細胞に届くころにはほぼ中性になっています。

2
それでも傷むので、どんどん作り替えている

完全に防ぎきれるわけではありません。胃の内側の細胞は数日で新しいものに入れかわるとされています。守りきるのではなく、傷んだそばから取りかえる作戦です。

順番に見ていきます。まず、そのぬるぬるが何をしているのかからです。

ぬるぬるの中で、酸はどこまで弱まるのか

粘液は、水をたっぷりふくんだ網のようなものです。厚さは0.2ミリほど、髪の毛2本分くらいとされています。うすく見えますが、ここでは厚さそのものより「流れがない」ことが効いています。

胃のかべの細胞は、この粘液の中へ炭酸水素イオン、つまり重曹と同じはたらきをするアルカリを静かに送りこんでいます。粘液の中の水は動かないので、送りこまれたアルカリはその場にとどまります。そこへ外側から酸が入ってくると、出会ったところで中和されます。

図1を見てください。左が胃のなか、右が胃のかべです。酸は右へしみこもうとし、アルカリは左へしみ出してきます。そのせめぎ合いの結果、粘液の層の中だけで酸の強さが一気に落ちます。胃のなかのpHは1.5ほどですが、細胞の表面ではおよそ7、つまり中性に近いことが測られています。

胃のなかから胃のかべへ ― 粘液の層で酸が弱まる 左:胃のなか pH 1.5(強い酸) 中央:粘液の層 厚さ 約0.2mm 右:胃のかべの細胞 pH 7(ほぼ中性) 酸(水素イオン)が右へ進もうとする 炭酸水素イオンが左へしみ出す 酸のまま 中性に近い 点線:左から右へ進むにつれて上がっていくpH(上ほど中性)
図1:左が胃のなか、中央が粘液の層、右が胃のかべの細胞です。上側の赤い矢印は右向きで、酸がかべへ進もうとするようすを、下側の緑の矢印は左向きで、アルカリがしみ出すようすを表します。いちばん下の黄色い点線は、粘液の層の中でpHが上がり、中性に近づくことを示しています。

それでも傷むから、毎日作り替えている

粘液の層は完ぺきではありません。食べ物がこすれれば削れますし、胃が動けば一部ははがれます。そこで胃は、削られるのと同じ速さで粘液を作り続けています。守りは、貯金ではなく毎日のやりくりです。

細胞そのものも同じです。胃の内側をおおう細胞は、数日のうちに新しいものへ入れかわるとされています。体の中でもとりわけ交代の速い場所のひとつです。少しくらい傷んでも、その細胞が用ずみになるころには、もう次の細胞が下から育っています。

逆にいえば、この作り替えが追いつかなくなったときに問題が起きます。粘液を作るはたらきが落ちたり、削られる量が増えたりすると、酸がかべに届く時間が長くなります。胃の不調の多くは「酸が強すぎる」よりも、「守りが薄くなった」側の話だと考えられています。

💡 胃は、自分をとかす道具をわざと「未完成」で出している

胃が出す消化酵素は、たんぱく質を切るものです。つまり胃自身も切れてしまいます。そこで胃は、この酵素をはたらかない形のまま送り出し、胃のなかの強い酸に出会ってはじめて、切れる形に変わるようにしています。作る場所では安全で、使う場所でだけ危険になる、という順番です。

💡 「胃酸が強い」のは損なようで、得がある

食べ物といっしょに入ってくる細菌の多くは、この強さの酸では生き残れないとされています。消化のためだけでなく、体に入る手前で止める関所にもなっているわけです。守るしくみを別に用意してまで、強い酸を使う理由がここにあります。

まとめ

胃が自分をとかさないのは、丈夫だからではありません。酸が届く前に中和してしまう薄い層を、毎日作り直しているからです。守りは硬さではなく、速さで成り立っています。

胃を守っているのは、分厚い壁ではなく、
毎日はりかえられる、0.2ミリのぬるぬるです。

同じように「毎日とけて、毎日もどっている」場所が口の中にもあります。歯は体でいちばんかたいのに、なぜ虫歯で溶けてしまうの?もあわせてどうぞ。酸とアルカリのつり合いという点では、息は、なぜ1分も止めていられないの?にも同じ炭酸水素イオンが出てきます。

🧪 台所で、ぬるぬるの「足止め」を見てみる
  1. 透明なコップ2つに、同じ量の水を入れます。片方には片栗粉を小さじ1杯とかし、よくかき混ぜてとろみをつけます。
  2. 両方に、食紅やしょうゆを1滴ずつ、そっと落とします。かき混ぜてはいけません。
  3. 1分後、5分後、10分後に、色がどこまで広がったかを見くらべます。

とろみのある側では、色がなかなか下まで届きません。粘液の層が酸に対してしていることも、これと同じです。動かない水の中では、ものは流れて運ばれるのではなく、じわじわしみるしかなくなり、その間に中和する時間がかせげます。

もっと知りたい人へ ― 用語・数式・教科書とのつながり中学理科から大学の専門科目まで、どのレベルの話かを明示しています
この先に出てくるラベルの見方
  • 中学中学校の理科で習う範囲
  • 高校高校の「化学基礎・化学」で習う範囲
  • 高校+高校の発展、または教科書のコラム扱いの内容
  • 大学高校では習わない、大学の専門科目(生理学・生化学)の内容
  • 研究大学でも「定説」として教わらない、いま研究者が調べている最中の話

中学用語:この現象には名前があります

中学高校式で確かめる:粘液の層で、酸の濃さは何分の1になるのか

「pHが1.5から7へ上がる」と聞いても、どれくらいの差なのかは想像しづらいところです。pHは目もりが1つ動くごとに10倍ずつ変わる、特別な目もりだからです。もとの式に戻して、実際の濃さを出してみます。

⓪ もとになる式
記号で書くと[H⁺] = 10 の(-pH)乗 / n = c × V
言葉で書くと水素イオンの濃さ = 10 の(マイナス pH)乗、酸の物質量 = 濃さ × 体積
どこから来る式か前者はpHの定義そのものです。水素イオンの濃さの常用対数に、マイナスを付けた値がpHです。後者は濃さの定義で、1リットルあたりに何モル入っているかを表します。
記号の意味
[H⁺]水素イオンの濃さ。単位はモル毎リットル
pH酸の強さを表す目もり。数が小さいほど強い酸
c濃さ。単位はモル毎リットル
V体積。単位はリットル
n物質量。単位はモル
① もとになる数値
胃のなかのpH(空腹時)およそ 1.5 とされています
胃のかべの表面のpHおよそ 7.0 とされています
10 の −1.5 乗およそ 0.032(モル毎リットル)とされます
10 の −7 乗0.0000001(モル毎リットル)です
1日に出る胃液の量およそ 1.5 リットルとされています
炭酸水素ナトリウム(重曹)1モルの重さ84 グラムです
② 計算してみる
胃のなかと、かべの表面での濃さの比0.032 ÷ 0.0000001 = 320000
1日に出る酸の物質量(モル)0.032 × 1.5 = 0.048
同じ量を中和する重曹の重さ(グラム)0.048 × 84 = 4.032

酸の濃さは、0.2ミリの層を横切るあいだに32万分の1にまで落ちています。そして1日ぶんの酸は、重曹にすればわずか4グラム、小さじ1杯ほどで打ち消せる量です。強さのわりに、量そのものは驚くほど少ないことがわかります。

高校高校+なぜ「うすい層」でそこまで落とせるのか

高校酸とアルカリが同じ場所で出会えば中和が起きます。ここで大事なのは、粘液の中の水が動かないことです。流れがあれば、しみ出したアルカリはすぐに流し去られてしまい、かべの近くを中性に保てません。粘液は、中和のための場所を、その場に固定する役目をしています。

高校+この「しみこむ速さ」と「中和する速さ」のつり合いが、層の中のpHの形を決めています。しみこみ方は拡散、打ち消し方は中和反応で、どちらが速いかによって、pHが上がる位置が層の内側にも外側にも動きます。図1の点線が層の途中で立ち上がっているのは、その結果です。

大学粘液重炭酸バリアと、緩衝の式

いま説明したしくみは、生理学で粘液重炭酸バリアと呼ばれています。炭酸水素イオンを作り出しているのは炭酸脱水酵素という酵素で、二酸化炭素と水から一瞬で炭酸水素イオンを用意します。また、層の中のpHは炭酸と炭酸水素イオンのつり合いで決まるため、ヘンダーソン・ハッセルバルヒの式で扱うのが定石です。酸を送り出す側はプロトンポンプと呼ばれる輸送体で、胃の薬の多くはここをねらっています。

📖 式の導出や、さらに先の内容:炭酸脱水酵素(ウィキペディア日本語版)ヘンダーソン・ハッセルバルヒの式(ウィキペディア日本語版)

研究まだはっきりとはわかっていないこと

つまりこの記事の内容も、「いまわかっている範囲での説明」です。胃の調子が続けて悪いときは、自己判断せず医療機関にご相談ください。

教科書とのつながり(レベル別)

レベル科目・単元この記事のどこ
中学理科・酸とアルカリ、中和酸がアルカリで打ち消されるところ
高校化学基礎・pHと中和、化学・反応の速さ「式で確かめる」の計算全体
高校+化学・緩衝液、生物・消化と酵素層の中でpHが上がる位置の話
大学生理学・生化学(粘液重炭酸バリア、輸送体)炭酸脱水酵素とプロトンポンプの節
研究消化器病学・微生物学層の厚さと、細菌の通り抜け方
生活とのつながり胃の不調を「酸の強さ」だけで考えない見方
参考・出典
  1. The Nobel Prize in Physiology or Medicine 2005(ノーベル財団・胃の細菌と胃炎の発見)
  2. Allen, A. & Flemström, G., Gastroduodenal mucus bicarbonate barrier: protection against acid and pepsin, American Journal of Physiology - Cell Physiology(2005)
  3. 本郷利憲ほか 編『標準生理学』医学書院(消化器の章、胃液の分泌と胃粘膜の防御)
  4. 炭酸脱水酵素(ウィキペディア日本語版)

※本記事は一般向けの科学解説です。掲載した数値は、しくみを理解するための目安・概算です。体調や治療に関する判断は、医療機関の指示に従ってください。