夜、暗い部屋を歩くと、なぜあんなにふらつくの?
― 私たちは、目でもバランスをとっています
同じ廊下です。同じ体です。明るければ何も考えずに歩けるのに、電気を消したとたん、足もとが急に頼りなくなります。じつは、まっすぐ立つという仕事を、目がかなりの割合で引き受けています。私たちは、見ることでバランスをとっているのです。
夜中に目が覚めて、電気をつけずに部屋を横切ろうとします。壁の位置も家具の場所も、頭では完全にわかっています。
それなのに、歩幅は勝手に小さくなり、体はゆっくりになります。片手が自然と壁のほうへ伸びます。
頭は道を知っているのに、体のほうが自信をなくしている。この差は、どこから来るのでしょうか。
理由は、大きく2つです
体の傾きを知らせる感覚は、耳の奥・足の裏・目の3つあります。暗くなると、そのうち目が使えなくなります。3つで支えていた仕事が、2つに乗りかかります。
3つのうち2つが同じことを言えば、脳は残り1つのずれを無視できます。2つしかないと、どちらが正しいのか決めきれません。迷いがそのまま、ふらつきになります。
この2つは別々の話ではなく、つながっています。順に見ていきます。
体の傾きを知らせるセンサーは、3つある
1つめは、耳の奥にあるしくみです。ここには小さな袋と管があり、頭の傾きと動き出しを感じとっています。乗り物で酔うときに登場するのと同じ場所です。
2つめは、足の裏と、足首やひざの関節です。足の裏には圧力を感じる神経が集まっていて、体重がつま先寄りにかかっているのか、かかと寄りなのかを、絶えず脳へ送っています。関節のほうは、曲がり具合そのものを報告しています。
3つめが、目です。ここが見落とされがちなところで、目は「どこに何があるか」を見ているだけではありません。視界が流れたかどうかを見張っています。自分が前に傾けば、部屋の景色は下へ流れます。この流れの向きと速さが、そのまま傾きの報告になります。
暗い部屋では、この3つめが黙ってしまいます。景色が見えなければ、流れも見えないからです。図1の左と右を見比べてください。届く報告が1本減っただけで、体の揺れ幅は目に見えて大きくなります。
なぜ、1つ減っただけでそこまで困るのか
3つのセンサーは、どれも完璧ではありません。耳の奥のしくみは、ゆっくりした傾きが苦手です。ずっと同じ角度に傾いたままだと、傾いていることを忘れてしまいます。足の裏は、床が柔らかいと当てになりません。ふとんの上に立つと急に不安定になるのは、そのためです。
そこで脳は、3つを見比べています。2つが同じことを言っていれば、残り1つのずれは無視できます。答え合わせの相手がいる状態です。
ところが暗い部屋では、残るのは耳の奥と足の裏の2つだけ。片方がずれたとき、どちらがずれているのかを決める手がかりがありません。脳は「たぶんこのくらい傾いている」と推測で埋めるしかなくなります。推測は外れます。外れたぶんだけ体は行き過ぎ、行き過ぎたぶんを戻し、また行き過ぎる。この往復が、あの頼りない揺れの正体です。
歩幅が勝手に小さくなるのも、体が勝手に選んだ対策です。歩幅を狭め、両足が床についている時間を長くとれば、足の裏からの報告が増えます。減った1本を、残りの1本で薄く補っているわけです。
暗いところに数十分いると、少しずつものの輪郭が見えてきます。ところが足もとの心細さは、思ったほど改善しません。バランスに効いているのは、細かい模様がはっきり見える力ではなく、視界全体がどちらへ流れたかをとらえる力だからです。ぼんやりした灰色の空間では、流れる模様そのものがありません。壁に貼った1枚の紙でも、模様があれば足しになります。
暗さに加えて、寝起きは条件が重なります。横になっていた体を起こした直後は血圧の調整が追いつかず、立ちくらみが起きやすくなります。さらに、寝ぼけているときは脳の情報処理そのものが遅れています。足もと灯を1つ置くだけで、消えていた3本目が戻ってきます。明るさよりも、床と壁の境目が見えることのほうが大切です。
まとめ
まっすぐ立つという何気ない動作は、耳の奥・足の裏・目という3つの報告を脳が突き合わせ、ずれを打ち消しながら続けている作業です。暗い部屋では目の報告が消え、残った2つでは互いの答え合わせができません。ふらつきは体の衰えではなく、情報が1本足りない状態への、正しい反応です。
私たちは足で立っているのではありません。
目と耳と足の裏の、多数決で立っています。
体の中では、こうした複数の感覚のすり合わせがあちこちで起きています。目と耳の報告が食い違ったときに何が起こるかはなぜ乗り物に酔うの?で、倒れそうになるたびに立て直すという同じ考え方が乗り物側でどう働くかはなぜ自転車は、走っていると倒れないの?で扱っています。
- 壁のそばに立ち、いつでも手がつける位置を確保します。両足をそろえて、まっすぐ立って20秒。ふらつきはほとんどないはずです。
- 同じ姿勢のまま、目を閉じて20秒。体が前後左右に小さく漂いはじめます。これが、目の報告を抜いたときの揺れです。
- 次に、片足を上げて立ちます。目を開けたままなら何秒もつか、目を閉じたときは何秒もつか、数えて比べます。多くの人で、閉じたほうがずっと短くなります。
必ず壁ぎわで、周りにものを置かずに行ってください。ふらついたらすぐ足をつくこと。年齢とともに差は大きくなります。差が大きいこと自体は異常ではありません。
もっと知りたい人へ ― 用語・数式・教科書とのつながり中学理科から大学の専門科目まで、どのレベルの話かを明示しています
- 中学中学校の理科で習う範囲
- 高校高校の「物理基礎・生物基礎」で習う範囲
- 高校+高校の発展、または教科書のコラム扱いの内容
- 大学高校では習わない、大学の専門科目(生理学・制御工学)の内容
- 研究大学でも「定説」として教わらない、いま研究者が調べている最中の話
中学用語:この現象には名前があります
- 前庭器官:耳の奥にある、頭の傾きと動き出しを感じとる器官。半規管と耳石器からなります。
- 体性感覚:足の裏の圧力や、関節の曲がり具合など、体そのものから届く感覚のまとまり。
- 支持基底面:床に接している部分と、その間を結んだ範囲。この中に重心が収まっているうちは倒れません。
- 重心動揺:じっと立っているつもりでも、重心が絶えず小さく動き続けている現象。その大きさを測る検査もあります。
中学高校式で確かめる:何度傾いたら、足の裏では支えきれないのか
立っている体を、足首を支点にした1本の棒と考えます。重心がどれだけ横へ動くと支持基底面からはみ出すのかを、おおまかに見積もってみます。
| 重心の高さ(へそのやや下あたり、床から) | 100 cm |
| 1度傾いたときの横ずれの割合(1度ぶんの値) | 0.0175 とされます |
| 足の裏の前後の長さ(成人のおおよそ) | 24 cm |
| 1度傾くと、重心は横へどれだけ動くか | 100 × 0.0175 = 1.75 |
| 足首から前方向に使える余裕(足の裏の半分) | 24 ÷ 2 = 12 |
| 支えきれなくなる傾き(度) | 12 ÷ 1.75 ≒ 6.9 |
つまり、前へおよそ7度傾いた時点で、重心は足の裏の外へ出ます。7度は、まっすぐ立った姿勢からほんの少し前かがみになった程度です。私たちはこれほど狭い範囲の中で、絶えず立て直しを続けています。
| h | 床から重心までの高さ。単位はcm |
| d | 重心が横へ動いた距離。単位はcm |
| L | 足の裏の前後の長さ。単位はcm |
高校高校+なぜ「立ったまま静止」はできないのか
高校重心が支点の真上にある状態は、力のつり合いは成り立っていても不安定なつり合いです。ほんのわずかずれると、ずれを大きくする向きに力が働きます。鉛筆を指の上に立てるのと同じで、放っておけば必ず倒れます。
高校+倒れる速さは重心の高さで決まります。重心が高いほど、倒れはじめてから支持基底面を出るまでの時間は長くなり、立て直す余裕が生まれます。背の高い人のほうが立て直しやすい面がある一方、いったん出てしまえば床にぶつかるときの速さは大きくなります。
大学3つの報告を、脳はどう混ぜているのか
複数の感覚を統合するとき、脳はそれぞれの信頼度に応じた重みをかけて足し合わせていると考えられています。ばらつきの小さい感覚には大きな重みが、大きい感覚には小さな重みが与えられる形です。床が柔らかいときには足の裏の重みが下がり、視覚の重みが上がる、というように、重みは状況に応じて配分し直されます。これは推定理論でいう最適推定にあたる振る舞いで、感覚の重みづけの再配分と呼ばれます。暗い部屋でのふらつきは、視覚の重みをゼロにされた脳が、残りの2つで推定の精度を保てなくなった状態と言い換えられます。
研究まだはっきりとはわかっていないこと
- ゆらぎは邪魔者か、道具か。 じっと立っているときの小さな重心動揺は、制御の失敗の残りかすだと長く考えられてきました。一方で、絶えず少し揺らして感覚を刺激し続けることで、かえって傾きを検出しやすくしているという見方もあります。どちらの側面が主なのかは決着していません。
- 加齢で何が先に落ちるのか。 高齢になるほど目を閉じたときの揺れが大きくなることは繰り返し確かめられていますが、原因が耳の奥の細胞の減少なのか、足の裏の感覚の鈍化なのか、統合する側の処理の遅れなのか、個人差が大きく、切り分けは進行中です。
- 訓練でどこまで戻せるか。 目を閉じた状態でのバランス練習が転倒を減らすという報告はありますが、どの程度の量をどれだけ続ければよいのか、効果がどのくらい持続するのかは、まだ確立していません。
つまりこの記事の内容も、「いまわかっている範囲での説明」です。ふらつきが日中も続く、片側だけに倒れるといった場合は、耳や神経の病気が隠れていることもあります。気になるときは医療機関で相談してください。
教科書とのつながり(レベル別)
| レベル | 科目・単元 | この記事のどこ |
|---|---|---|
| 中学 | 理科・刺激と反応/感覚器官 | 耳の奥・足の裏・目という3つのセンサーの話 |
| 高校 | 物理基礎・力のつり合い/生物基礎・恒常性 | 重心と支持基底面、7度で外へ出るという見積もり |
| 高校+ | 物理・剛体のつり合いと不安定なつり合い | 重心の高さが倒れる速さを決める話 |
| 大学 | 生理学・感覚の統合/制御工学・帰還制御 | 信頼度に応じた重みづけと、その再配分 |
| 研究 | 姿勢の制御の研究・転倒の予防 | ゆらぎの役割、加齢による変化、訓練の効果 |
| ― | 生活とのつながり | 足もと灯を置く、夜は歩幅を狭める、壁に手を添える |
- 厚生労働省「人口動態調査」(不慮の事故のうち転倒・転落によるものの統計)
- 医薬基盤・健康・栄養研究所(身体活動と体力に関する調査研究)
- 日本めまい平衡医学会編『重心動揺検査の基準値と測定法に関する資料』(立っているときの体の揺れを測る標準的な方法をまとめたもの)
- Ernst, M. O. and Banks, M. S., Humans integrate visual and haptic information in a statistically optimal fashion, Nature, 2002(複数の感覚を信頼度に応じて重みづけして統合するという考え方の代表的な論文)
- 内山靖ほか編『臨床運動学』(姿勢の制御と支持基底面についての教科書的な解説)
※本記事は一般向けの科学解説です。掲載した数値は、しくみを理解するための目安・概算です。バランスの確認は必ず壁ぎわなど安全な場所で行い、無理をしないでください。めまいやふらつきが続く場合は自己判断せず、医療機関や自治体の相談窓口の指示に従ってください。